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院長ブログ
2016.02.16

『大事なことは・・・・・』

『大事なことは・・・・・』

おはようございます!!!

今日も一日、全力で顔晴ります!!!


「大事なことは、自分に何かができると信じることだ」

              ―ジョン・レノン


1957年7月6日。
その日、ジョン・レノン(当時16歳)は
教会のバザーの催しで、
仲間と組んだバンドで演奏をしていました。


演奏を終えると、
ある一人の少年がギター片手に近づいてきて、
いきなりロックンロールナンバーを弾きはじめました。


それはすごいテクニックで、
その歌声もイカしていた。


ジョンをはじめ、
メンバーたちは呆気にとられます。

その少年こそ、たまたま遊びにきていた
ポール・マッカートニーでした。

ポールはこのとき15歳。
後に、ビートルズを結成し、
Lennon=McCartneyというクレジットで
伝説の名曲を次々と生み出していくことになる二人の運命は、
この日交差したのです。


その一年後、ジョン・レノンは、
絶望の洗礼を受けることになります。

母親の突然の死・・・・・。


ジョンの母親は、
酔っぱらいの運転する車にはねられ
亡くなってしまうのです。

母はいつも、
落ちこぼれでアウトローのジョンの味方でした。
先生にこっぴどく叱られたときも、
母は笑い飛ばしてくれた。


その母と一生会えなくなったのです。
ジョンは泣いた・・・・・。


それからジョンの毎日は、
荒れ狂う日々となりました。


そんなジョンの救いとなったのは、
ロックンロールでした。
ジョンはその悲しみのすべてを
ギターの練習にぶつけたのです。


実は、その2年前、
ポール・マッカートニーも
母親を病気で亡くしています。

ジョンとポールが初めて出会った
あの教会のバザー。


ポールは15歳ながら、
なぜジョンを驚かせるほどに
ギターがうまかったのか。


ポールの母が死んだ夏。
ポールは父に頼み、
実はギターを手にしていたのです。


そして、母の死を乗り越えるために
気がふれたようにギターにのめり込んだ。
だからわずか1年で劇的にうまくなったのです。

ポールはジョンとのことをこう語っています。


「何年か経っても、幾度かふたりであのときの哀しみに襲われ、
一緒に泣いたことがあった」

「僕らふたりは同じような心の痛手を受け、それを克服しなければならなかった。
言葉にするには辛すぎ、悲しみを笑いとばすことで、どうにか乗り越えたんだ」


ジョンとポール。
我が強く、本来、交わることはないであろうふたりは、
ともに母の死を乗り越えていく過程の中で音楽性を深め、
そして絆を結んでいったのです。


ちなみに、ポールが後に、
亡き母を歌ったのが「レット・イット・ビー」で、ジョンのほうは「マザー」です。

放火容疑で国外追放


そして、ジョン・レノン19歳。
ビートルズは、ようやく、ドイツのハンブルグのクラブでの演奏の仕事を手に入れます。
しかし、当時のハンブルグは、銃声が鳴り響き、
ギャングが大手を振って歩く犯罪都市でした。


しかも、ハンブルグでの仕事は、
食事は昼に1度、ミルクをかけたコーンフレークが1杯出されるだけ。

クラブではひと晩で10〜12時間と出ずっぱりのステージ。
控室はトイレ。
宿泊先は隣の映画館の裏の物置。


そして、客は、音楽なんか聞く気もない荒くれた者たちで、
元受刑者すらいました。


そんな生活を5ヵ月続けたある日、
メンバーのジョージが18歳以下であることがバレて、
逮捕され国外追放に。


さらに、寝泊まりしていた映画館でポールがマッチをつけたところ壁が黒コゲに。
ボヤ騒ぎとなり、放火の容疑でこれまた国外追放に。


こうしてメンバーは生まれ育ったイギリス、リヴァプールに戻らざるを得なくなります。
意気揚々と向かったドイツでしたが、
有名になることもなく、帰りは散々。


みんな失意のドン底で、自信を失いました。

「ビートルズは、もう終わりだ……」

帰国後のジョンは、当時の彼女こう告げるほどの意気消沈ぶりでした。
後に天才の名を欲しいままにするポールですら、
このときは虚無感に襲われ、
家でゴロゴロしていたところを父親に叱られ、
しぶしぶ就職します。


最初は、トラックの荷物の積み下ろしの仕事に就きますが
2週間でお払い箱に。


次に見つけた電気のコイルをまく仕事では、
他の工員が1日10個以上仕上げるのに、
ポールは1個半という超不器用ぶりでした。


しかし、このとき、諦めなかった男がいたのです。
もうひとりのメンバーのジョージ・ハリスンです。

ジョージは、ポールとジョンの元を訪れ、「もう1度バンドやろう」と
ふたりを励まし続けたのです。


犬なみの生活でつかんだもの
そしてチャンスはやって来ます。

1960年12月27日。

ビートルズのターニングポイントといわれる日です。


リヴァプールの北、リザーランドのタウンホールに立ったビートルズ。
ポールが「ロング・トール・サリー」を歌うや、
ウワーッという大歓声が起き、

客は総立ち。
観客が金切り声でステージに押しよせてきました。


????????????????

一体、どうしたんだというんだ!?


ドン底だったハンブルグでの5ヵ月にわたるハードな演奏生活の中で、
音楽は劇的に進化を遂げていたのです。


ジョンはこう振り返っています。


「ビートルズがまさにビートルズとして育ったのはリヴァプールじゃない、
ハンブルグだ。ハンブルグでぼくらは本当のロック・バンドに成長したんだ。
12時間もぶっ続けで言葉の通じない、
しかも音楽などまるでお目当てでない種類の人間をのせるだけのものを、
ぼくらは身につけていた。

ひどい夜(「ア・ハード・デイズ・ナイト)だった。
あのひどい犬なみ、いや、それ以下の日々のなかで、
一番大切な何かを自分たちのものにしていた……」


母の死という悲しみを乗り越えようとして、
ジョンとポールは音楽に打ち込んだ。


母の死という絶望を分かち合うことで、
ジョンとポールの絆が結ばれた。

そしてドン底だったハンブルグでの5ヵ月がビートルズを育てたのです。


人は”ア・ハード・デイズ・ナイト”(悲しみ)の中で本気になり、
人は”ア・ハード・デイズ・ナイト”(絶望)の中で絆を結び、
人は”ア・ハード・デイズ・ナイト” (逆境)の中で進化するのです。


No Rain,No Rainbow.

雨降らずして虹は出ない。
そこんとこよろしく!


ア・ハード・デイズ・ナイト (ひどい夜)。
それは伝説の幕開け。



出典  心が折れそうなときキミを救う言葉  著 ひすいこたろう 柴田エリー  ソフトバンク文庫

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雨降らずして虹は出ない
そこんとこよろしく!

最後までお読みいただきありがとうございました。


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