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院長ブログ
2014.06.24

『徳川家康のことば』

『徳川家康のことば』

おはようございます!!!





今日も一日、全力で顔晴ります!!!






「水はよく船を浮かべ、水はよくまたその船を覆す」






徳川家康は1542年に生まれ、1616年に亡くなりました。

74年の生涯でした。




彼はたったの6歳で、今川義元の人質となります。

もし徳川家が今川に反した場合は、すぐに殺されるという状況での人質生活でした。





1560年5月19日、織田信長はわずか3千の手勢を率いて、4万人と称された今川義元軍に挑みかかります。

10分の1以下の少数部隊でした。





このとき徳川家康は18歳です。6歳から18歳まで、家康は実に12年間今川義元のもとにいました。

そして、この戦いにより解放された家康は、岡崎城に戻りました。





「殿が12年ぶりに戻ってきたそうだ」という報せで、家臣に登城命令が下りました。

家臣たちは半信半疑ながら集まることになります。





「12年も城を放っておいたわれわれ家臣に対して、成長した若殿は何を言うのだろう」

「城を捨てたわれわれ、城を守らなかったわれわれに対して、『何をやっていたんだ』となじるのではないだろうか」

「怒ったり、腹を立てたりした場合には、もう仕方がないので、そのまま家臣をやめて農民になろう」・・・。



自給自足で暮らしていた家臣たちは、そんなふうに話をしながら登城したのだそうです。


そこで待ち構えていた家康のことばというのは、家臣にとって意外なものでした。




「今までよく我慢をしてくれた。
 
 今日はよく集まってくれた。 
 
 私はうれしい。

 皆に感謝する」





そういうと家康は、段を下りて、広間に座っている家臣たちに酒を注いで回りました。

自ら段を下りて、家臣たちに「ご苦労であった」と労って歩いたのです。




今までにない殿様像でした。

戦国武将にそのような人物はいませんでした。





12年間の人質暮らしというものが家康に好影響を与えたのでしょうか、

決して威張るような体質の殿様ではなかったようです。





今川義元のもとで、12年間人質であった。

偉そうに振る舞っていれば気に入らないということで、いつ殺されるかわからない。

といって、卑屈に媚びて相手のご機嫌を取るような人間であれば、

逆に「こんな奴は嫌いだ」と言われて、殺されたかもしれません。





一国一城の主として、凛とした体質を持ちながらも、だからといって周りの人間に命令したり

偉そうにしたりはしないという微妙なところの人格を、家康は12年間でつくりあげることになったのかもしれません。





酒を注がれた家臣たちは、感涙にむせびました。

「こんな殿様だったとは」

「こんな殿様になったとは」

と、皆驚いたのです。






そして三河の武士たちは、このときに決心しました。


「この殿のために、命を尽くそう。命を捧げよう。一生涯この殿様についていこう」と。





家康は突撃命令というのをほとんど出していません。

負けるかもしれない、あるいは兵を殺すかもしれないという戦いのもとでは、

ほとんど兵に突撃命令を出さないのです。




生涯一度だけ、敗戦を味わったことがあります。


武田信玄との戦い、三方ヶ原の戦いというものでした。




このとき正面からぶつかった信玄軍は、あっという間に退却を始めます。

ほとんどぶつかった瞬間から総崩れで退却を始めました。

家康はそれを勝利と勘違いをし、深追いをしたのです。



奥まで進んだところで、左右からの攻撃を受けました。

潜んでいた兵、これを伏兵といいますが、伏兵からの挟み撃ちにあったのです。





予想しない攻撃に対して、今度は徳川軍が総崩れになりました

正面にあった信玄軍は、それを見てただちに引き返し、

三方から家康軍を叩いたのです。

結果は大敗北。家康は命からがら逃げ帰りました。




このときにすごい顔をしていたので、

家康はこのときの顔を肖像画に残しているくらいです。

自分の敗北を、決して忘れないという意味で、

この肖像画を描かせたのだそうです。





のち、武田家が滅亡し、武田の家臣たちが流浪の身になったときに、

その多くを家康が引き取りました。

そして何かにつけ、

「信玄はどう考えていたか」

「信玄はどう動いたか」

を、その家臣たちから学びました。

家康はそういう人だったのです。




ひと言でいうと、家康は家臣を大事にする人でした。


無理やりの突撃命令を出して死者を出さない、戦死者を出さない

ということをいつも考えている人でした。




のちに「狸親父」と言われ、権謀術数を巡らし、

大阪城を落城させたときにも、

なるべく兵を殺さないということは徹底していました。

権謀術数を巡らせた結果として、ほとんど自分の兵を殺すことなく、

大阪城を落とすことになったわけです。






この家康が「座右の銘」というほどのものではありませんが、

自分に言い聞かせていたことばというのが残っています。



「水はよく船を浮かべ 水はよくまたその船を覆す」。





統制もするけれど、家臣一人ひとりは必ず大切にするという思想が、

家康の中にありました。



「自分の力で殿様に納まっているわけではない。

 殿というのは、家臣たちの支えがあって初めて存在するものだ」

という考えが、このことばによく示されています。






出典  心に響いた珠玉のことば  著  小林正観   KKベストセラーズ

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もう一つ、有名なエピソードがありまして。




豊臣秀吉が諸大名を集めて自分の持つ宝物を自慢し、

家康にどんな宝物を持っているのかと尋ねた。

それに対して家康はこう答えた。



「私は田舎の生まれですので、これといった秘蔵の品はありません。

しかし、私の為に命を賭けてくれる武士が500騎ほど配下におります。

この侍たちを何にもかえがたい宝と思って、いつも秘蔵しています。」





家康がいかに家臣を大切に思い、また、家臣たちも家康を大切に思っていたかが

わかるエピソードです。


ものスゴイ信頼関係だなと・・・



己だけの力ではない。周囲の人たちのありがたさに気づけるお話です。

肝に銘じないと・・・・




最後までお読み頂きありがとうございました。

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